「だめだ」と本能が叫んだ。
「とーしろー」と舌足らずの声で呼ぶ。
「とーしろー」と赤みを帯びた頬と潤んだ瞳で見上げてくる。
「とーしろー」と愛らしい唇が紡ぐ音に目眩を感じた。
何がいけなかったのか。何が悪かったのか。
その時、その場所で、何かが変わってたのは確かなことだ。
何年ぶりに風邪を引いた片割れに氷嚢を造りながら重い溜息しか出てこない。
静まり返った家の中、久しぶりに落ち着いて腰を下ろしたような錯覚がした。
見慣れたリビングが他人の家のように感じることは度々あった。それでも此処が産まれた場所で、育った場所であるのには変わりはなく、五月蠅い父親と可愛い双子の妹たち。そして片割れ。
早くに母親を亡くしているからなのか、自立心旺盛な妹達とはうって変わり子離れ出来ていない父親の明るさがこの瞬間恋しく思えた。
静まり返ったリビング。明かりの灯らない部屋。
まるで母親が居なくなった日のような、そんな錯覚さえ思わせる静まり返った我が家に居心地が悪いと思えた。
「一護」
何度呼び掛けても荒い息しか聞こえない部屋の中へと足を踏み入れれば見慣れているはずの片割れの部屋が他人行儀に見えた。
真っ赤に染まった頬を撫でれば気持ちよさそうに擦り寄ってくる。氷嚢を頭の下へと敷いてやれば眉間に造られた皺が緩む。
産まれる前から知っている体温を久し振りに感じた気がした。
「いちご」と呼び掛けても返答はない。
熱に魘される片割れのくつろいだ襟元を直しながら、そこにあるはずのないモノを見つけて硬直した。
その瞬間、何かが終わり何かが始まった音がした。
夢現で名を呼ばれるたびに速まる鼓動は気のせいだけでは片づけられない。